補12.リタイア後の生活(餻云居訪問記)

補12.リタイア後の生活(餻云居訪問記)

 
  リタイアして考えた事は何をしようかと云う事です。50年間仕事一筋で来たので結構途惑いました。

友人知人に聞いたのですが、十人十色やっている事は皆異なった上、10年のキャリアを持つ人が多くそれぞれの分野で全国的な賞を得たりしていましたが、興味を持てるものが見つかりませんでした。

 次にリタイア後の生活に関する本を読み漁ったのですが、これも紋切り型というか教科書的というか何の面白味も有りませんでした。
 
 また習い事をしている人も結構多かったのですが、対象の如何に因らず、習い事が好きでないのでこれも駄目でした。

 その様なわけで随分迷ったのですが、たまたま文人の世界が、リタイアした閑人に最適との気がしたので調べてみました。

 文人の世界と云っても晋から唐、宋、元、明、清、民国と千七百年の歴史があり、各時代によって性格が随分異なるので一通り調べるのにかなり時間が取られましたが、それなりに楽しいものでした。

  わが国では清、さかのぼってもせいぜい明と云うのが常識ですが、まるっきり肌が合わず、東晋がピタッと来たのは多感な少年時代に戦争に負けたという事が、屈曲した気持ちとして心の深層に残っていたのかも知れません。

  因みに私は、昭和16年4月に小学校から新たに改称されたばかりの国民学校初等科に入学しました。国民学校初等科が再び小学校に改称されたのは昭和22年3月に卒業した直後の4月ですので、小学校には一度も在席した事が有りません。

  さて何をするのかという事ですが、見本となる東晋の文人が為していた事や為すべき事となると何分千六百年前の話ですから諸説有って真偽の判別に困り、結局、自分の都合の良い様に取捨選別した結果が下記の通りです。

  このうち文房諸宝については、友人が餻云居訪問記として一文を書いてくれました。

 

1.徳行にすぐれた人と言われるよう努める。

2.日に一度は山に入る。

3.朝から飲酒する。

4.髭を伸ばす。

5.囲碁を打つ。

6.庭には竹を植える。

7.園芸は東洋蘭と牡丹。

8.ペットは亀か鶴。

9.古人の法帖を繙いて臨書をする。

10.古典の書物を読みふける。

11.毎日必ず硯を洗う。

12.お金・健康・年齢の事を一切考えず、口にも出さない。

13.友人知人が亡くなった時に備え、一人でも出来る趣味を考える。

14.手足が不自由になった時、そして死を迎えた時に備え、ある境地に達する。

 

以上の解説をします。

1.文人とは本来、徳行にすぐれた人を言った。これが必要十分条件だが、一日を徳行に努める事のみで過ごせる人が少なかった為か、長い年月の間に下記の枝葉末節、稚戯とも云える色んな事項が考え出された。
 私も常に、人の為、お国の為と云う事だけを考える様にはしているが、つい自分の事も考えてしまうのか結構枝葉末節、稚戯の事項の方に熱を入れている時が有る。

2.これは修行であって健康の為ではない。修行の目的は、ある境地に達する事である。古人が山で修行したのは、山にある古木の出す何かが、人の精神に影響を与える事、そして疲れるほどその影響力が強くなる事を知っていたからだ。したがってハードな程良いので、一日に3時間を費やして近くの虎伏山に登っている。多い時は5時間となり健康にはかなり悪い。

  運動が如何に体に悪いかと云う例を挙げると、私の馴染の散髪屋は、自転車で超遠距離を店まで通い、健康自慢の人であったが、心臓をやられた。

お城で出会った人は、近くの日赤からリハビリに来ているとの事、以前日曜日は近くの山に登り、夏休みは日本アルプス、会社ではエレベーターを使わず階段使用で、健康には自信を持っていたそうだが、やはり突然心臓をやられたそうだ。

過日の毎日新聞の読者欄に、毎日一万歩を歩きラジオ体操を欠かさなかった人が、心臓をやられたと投書していた。

もし健康を目的とするのならば、楽天の野村監督の亀健康法が良いと思う。監督は「45歳まで野球選手として動いたからその後は動くのを止めた。亀を見ろ、ほとんど動かないから万年生きる」と言っているらしいが、事実自軍の選手がホームランを打っても席を立たないそうだ。

野球の元選手が何千何万人いるのか知らないが、現に74歳になってもまだ現役を続けていられるのは野村監督ただ一人、監督の健康に対する考えの正しさを証明するものと思う。

やはりこの考えは正しかったようで、私自身が心臓をやられた。近日バイパス手術を受けるが上手くいけばその経緯を別項目で紹介する積りだ。(24/4/16)

25/9/23千日回峰行を2度達成した酒井天台宗大阿闍梨が心不全でなくなった。

3.これが意外と難しい。毎日昼間から飲んでいるが、朝からとなると正月の3ヵ日以外は殆んど飲んだ事がない。しかし王義之が酔って書いた蘭亭叙を酔いが醒めてから清書したところ、何枚書いても酔って書いたのに及ばなかったという故事や、李白の詩の殆どが酔っ払っている時に出来たという事から、才能がはるかに劣る並の人が素面で作る書や詩に碌なものが無い事は絶対に確かで、せめて酔って作れば自分の作品を恥じる気持ちが少しは薄れて自己嫌悪に陥る事が少ないだろうと、云う事から文人の為すべきことの一つに挙げられたのだろう。

  取りあえず、手習いを始める前に、昼のビールを焼酎に替え胃と肝臓を鍛えている。

4.古人曰く、「士大夫たるものが、如何して宦官や婦女子に似せようとして髭を剃るのか理解出来ない。」とのこと。

5.囲碁は、文人を極めてついに羽化し、仙人になってからも続けられる趣味だそうだ。ただ一局打つのに一時間以上掛かる為、時間が惜しくて何十年も打っていない、日曜日のNHK杯囲碁トーナメントを見るくらいだが、それも序盤だけで中盤まで見る事はまず無い。
最近チェスを指してみた。意外と面白く第一時間が掛からないのが良い。結構嵌ってしまい、テレビの囲碁を見る事が無くなった。

6.可使食無肉,不可居無竹。無肉令人瘦,無竹令人俗。人瘦尚可肥,士俗不可醫。・・・蘇軾
 肉を食べないと痩せるのならダイエットで苦労する人はいないと思うのだが。

7.東洋蘭の栽培歴は長い。牡丹は花の無い時鑑賞に堪えない。

8.鶴はちょっと難しいので、陸亀を飼っている。動画はここをクリック。

        考えてみると、蘭は3日から一週間に一度水をやるだけだし、陸亀も二三日餌やりを忘れても如何と云う事は無いし、第一、年の3分の1以上は冬眠しているから、無精者にもってこいの趣味と云える。
   もしかすると東晋の文人達は、園芸やペットの世話の様な事はちょっとした息抜きにすぎないと考えていて、このような小事で貴重な時間を費やさない様に、出来るだけ手間の掛からないものを選んだ結果が東洋蘭と亀だったのかも知れない。

9.臨書は古人との対話とか、楽しい気分になれる。
   しかし、何時もどうせならと自分の名前を書く練習を始め、自分との対話になり不愉快になって止めてしまう、の繰り返し。

10.どの分野でも、古典の方が面白いが、理由は分からない。

11.顔は3日洗わなくても良いが、硯は毎日洗わなければならないと云われている。

12.これを実行すると生き極楽の境地になれる。しかし現役の時にこれを実行すると多分生き地獄の状態になると思う。

13.琴の名人伯牙が、無二の聴き手であった鐘子期の死後、二度と琴を弾かなかったという話は有名だが、長生きをすれば誰でも自分を知ってくれている人が減ってくるものだ。

   そこで古人も一人になってからでも楽しめる趣味を探し求めていて、結論を出している。それは物を集めることだそうだ。一例として、晋の武帝司馬炎がある。皇帝は孤独なものだそうで一人で楽しめる趣味として美女を集めた。呉の孫皓を攻め彼の後宮の美女5千人を奪い、それで司馬炎の後宮は美女の数が2万になり大いに楽しんだそうだが、この場合、一人と云うよりは二人で楽しんだと云うべきであろう。

 私の場合いろんな事情があって司馬炎のようにはいかないので、文房諸宝を集めることにした。

14.人はだれでも最後には手足が不自由になる。先日の毎日新聞の読者投書の欄に載っていたのだが、ある人の奥さんが趣味として書道に熱中していたが、病で手が動かなくなり、精神的にも参ってしまったとあった。

   この様な場合の対策も立てて置く必要がある。修行を続けることである境地に達する事が出来た場合、周りの人の苦労迷惑は別として、本人は手足が不自由になっても楽しく暮らしていけると考えている。しかしこの境地は残念ながら「朝菌不知晦朔。蟪蛄不知春秋。」という事で言葉や文字では表せない。



 

餻云居訪問記     ( 注:【】内はその後の餻云居主人による加筆 )

餻云居を久しぶりに訪ねた。
  門扉を通ると左手の路地に竹が植えてあり、短期の出張中も竹を持参し不審がられた時「食べ物に肉がなくてもよいが、竹の無い所に住んではいけない。肉がなければ痩せるだけだが、竹がないと人は俗になる。痩せたのは肥やせるが、俗になると医すことができない」と答えたという蘇軾(蘇東坡)の故事を思い出した。

路地には、他に東洋蘭の鉢がいくつか並べられていた。
  餻云居主人(私の事)の言によると、色んな種類を集めたが今は日本寒蘭の白妙だけになってしまったとの事で、残念ながら時期が悪く花を見る事が出来なかったが、葉姿葉繰りや古渡り白交趾、青磁、古渡り炉鈞窯 広東、京楽、伝市などの鉢が楽しめた。

 

玄関を入るとすぐ文房が有り、入り口は狭く居住区との出入り口は広い、そして往来に面した窓は小さく庭に面した窓は大きいと云う約束通りである。

 

    床の間の軸は景元朱淦の功徳無量、引首印は廬山帰来。これにいかにも涼しげな宋影青香爐が供されていた。
 春はジャポニズムの19世紀クラウン・ポーセリン赤地金彩香爐、秋は紀州十代藩主治宝侯に招かれ御庭焼偕楽園の開窯にかかわった楽十代吉左衛門(旦入)の拝領印赤楽香爐、冬は時代塗箱『金蒔絵字形「雲鶴香爐」』大燈金襴金(カナ)地大牡丹仕覆付高麗雲鶴青瓷香爐と、季節によって、取り換えているそうだ。

 

  
   脇には生地仕上げのあかざの杖が無造作にたてかけてあり、その前に怪石が飾られていた。
  怪石は、痩、皺、透、秀、奇、醜、の六要素を具え、且つ包漿で味が出ている。精微な細工の紫檀台座と、唐石と墨書された時代の有る桐箱が付随し、銘は“通天峰”との事であった。
  しばらく眺めていると、意境に神遊の境地に容易に入る事が出来た。英語で-Spirit Stone of China-と云うのも頷ける。



 飾り書棚が部屋の東側にある。上段には李朝朱塗り小箱と赤絵合子、白珪硯屏が飾られていた。



  李朝朱塗り小箱の蔵品は、銅印が2顆、刀子、19世紀の純銀ハンドルはさみであった。

    銅印は、稀な鶏頭紐で、印文は朱文で“餻云居”、印文大小法がとられている。

  主人はこの印文‘こううんきょ’は幸運居に通じるとして堂号印とし、堂号を“餻云居”としたそうだ。
  ちなみに“云”=“雲”である。

    もう一つの銅印は、戦国円筒鼻壇紐で、印文は朱文“璽(土+尓)”、小さいので認印として使用しているとの事。
   尓と土の文字の中央の線を両方とも下部が中央に寄る様に傾けているため一体化しバランスが良い。この二線が平行の場合裾開きに見えだらしなく感じられる。小さいのに掘りが深く底が平らで土手が立っていることから見て、当時の鋳造技術の高さがうかがえる。
  戦国の中国を統一した秦の始皇帝以降“璽”は皇帝以外使用禁止となっている筈だがと問うと、特に許可を得ているからご心配なくと笑っていた。

  【刀子は小柄小刀で刀身には細密な倶利迦羅龍が刻されている。拵えも花弁浮出文黒漆平合口拵で上品、倶利迦羅龍は信仰する不動明王の化身と云われているので気に入っている。】

  はさみは、Gorham sterling silver scissors(右向きライオン、錨、Ĝ)の刻印、刃(GERMANY)の刻印で友鞘。
  アメリカ製純銀ハンドルの鋏の刃の部分に“Germany”と刻印されているのは奇異な気がするが19世紀末に於いて、刃は当時最高品質のスチールが製造されていた英国かドイツに依った為である。
  なお同時代の銀製品でスプーン、ホーク、ナイフは多いが、鋏は少なく特に中形で且つ友鞘なのは希少である。

  合子には、赤で《山不在高 有仙則名  水不在深 有龍則霊  斯是陋室 惟吾徳馨》と書かれていた。主人は自分の文房(餻雲居)を詠った詩だというが、たしか劉禹錫の陋室の銘だったと思う。

  硯屏は実用性に乏しいが、文人の象徴ともされ、良質の白珪には《天堂富貴》の文字とそれを囲むように二頭の龍が刻されている。

  下段には、西周後期の鐘、常用の硯箱、文鎮・筆架・墨床を入れた唐木の箱、筆巻きが置かれている。

 鐘は西周後期の青銅で、本来9~64個程度で構成される編鐘の一つ。
  大きさの違ういくつかの鐘を順に並べ吊るしたのが編鐘。この鐘も飾台に吊るされ撞木が付随している。
  文様の輪郭はいずれもシャープに鋳出されており、形も良く整った優品。殷や周の時代、祖先や神々をまつる祭祀や賓客を迎えての宴会の折りには、必ず音楽が演奏され「鐘」は楽隊の中でも最も重要な役割を持つ楽器の一つであった。
  寸法から編鐘の最後の方の一つと考えられ、愛玩寸法であり、小品ながら中国古代金工の魅力を存分に味あわせてくれる品である。

 硯は小型の紫石蝙蝠文で北朝鮮の発掘と云われ雅趣がある。
  頭部に彫琢された蝙蝠と祥雲の組み合わせは音通から福と運をもたらすものとして、中国では吉祥とされ、李朝でも福運の象徴とされた。
  主人の言だが墨のおりも良いし、文様から墨を磨っていると手元に福が飛び込んでくる気がするそうだ。

 【文鎮は南宋官印の流用で、印背は‘嘉定十六年文思院鑄’、印面は‘嘉興府澉浦駐扎殿前司水軍第一將印’である。駐扎は駐屯、殿前司は宋の国軍の最高機関三衛の一つであるが、宋印独特の入組んだ字体(九畳篆)のため判読に苦労した。】

  【筆架は翡翠鯉波濤形筆架象牙環飾唐木台座。鯉=出世、鯉書=手紙から文字と文章が上達する様にとの意匠。細工が細密で、通常は其の侭置物として鑑賞に堪えるが、筆架として使用する為に飾台座から外した時、安定の良い様に底の中央に溝を掘るなど細部に至るまで気を配っている。また小筆から中筆まで架けた時の安定感も良く、一本架けで小型なのも好ましい。】

 筆は李鼎和 湖州 李鼎和精選仿蘭蕊式宿浄純羊毫(民国)である。
  宿浄純羊毫などとした筆は先端が薄飴色の微透明をしていて五、六歳以上の老羊の上質の細い毛を選んで作るというが、たしかに穂先が飴色の微透明で収筆時に穂先が立つので気に入っているそうだ。

    この筆にたどり着くまで、何十種類何十本の筆を求めた事であろうか、無駄遣いだったようでもあり、それなりに楽しんだような気もするとの事であった。



 小窓に面して赤茶の塗りの几案がある。主人の厳父が昔、高麗橋吉兆の女将の紹介で求めた物だそうで、非常に軽いので使い勝手が良いそうだ。
  几案上には硯、飾筆、墨、水注ぎ、筆洗い、印、銅鏡が飾られていた。

  硯は、端渓水巌仙桃硯で、蕉葉白、丁敬、丁印の在銘在印であった。
  頭部に彫琢された三個の仙桃は虫蛀を利用してあり、まことに風趣がある。仙桃は三千年に一度実りこれを食せば三千年の長寿を得ると言われ長寿の象徴である。又その彫の深さ立体感から、清初とされているのも納得できる。
  四辺はおおむね天然状で、ところどころに黄臕(こうひょう)をとどめ、また左辺の凹みが何ともすばらしく、いかにも老坑の趣をみせている。
  文様は、中央部に伸びる氷紋が金線と重なり其の最上部が暈(うん)となって仙桃の枝に連なり、あたかも露の様な感じを表している。
  またこの二層氷紋の左右に沿う火捺から青白い腺紋が左右に伸びているので二層氷紋を主脈として正に蕉葉に類似せる形体をなしている。
  之より巷間よく間違われている無定形の魚脳凍で無く、極めて得がたい真の蕉葉白である事が明らかである。
  又この二層氷紋は、仙桃の枝先にたまった露が滴下し、下方の青みを帯びた氷紋とつながって地上で広がっている様にも見える。
  墨堂は指で触ると赤子の肌のように滑らかであるが墨のおりは抜群である。類例の少ないものがすぐれた硯であると言われている事からも、名硯と云えよう。

 飾筆は存星で約束の友鞘である。【堆朱はたまに見かけるが、存星はまず無い。】
   友鞘の上面は白黒の漆で太極図を描き、友鞘と軸は茶色の漆を厚めに塗った地に雲龍文や波濤などの文様を彫り、褐色や朱などの彩漆で埋めている。
  文様の輪郭は線彫りされ沈金技法がなされているが、金の大部分は剥脱している。
  存星はわが国には茶道の普及とともに渡来しており、各種の茶道具として喜ばれ、評価が高いものである。
  またこの様な飾筆は、煎茶席の文房飾りとして欠くことの出来ないもので、友鞘が条件である。
  なお「存星蒔絵筆 皎嶽蔵」の箱があるが、“尺八と禅僧とに就ての一考察”の著者の織田皎嶽だと思う。

    ちなみに大極図は陰陽の中に小さな点の陽と陰を含むが、これは「陰中の陽」「陽中の陰」を表している。  さらに全体が円となり、流転する様を表しているが、これは「陽、極まれば陰」「陰、極まれば陽」という事らしい。

    陰と陽何れも深い意味があるが、主人は単純にこれを苦と楽と考え、「苦中に楽あり、楽中に苦あり、楽極まれば苦となり、苦極まれば楽となる」とし、この様な状況の繰り返しだった現役時代の思い出として、リタイアの記念に最適と購入したそうである。

    しかしリタイア後は楽のみになって現役時代の事はケロリと忘れてしまい、特にお金と健康と年齢を考えない様にし、口にも出さない様にしてからは、毎日が生き極楽になったそうだ。
  主人は、心配事も腹の立つ事も無くなったせいか日に日に阿呆面となった、だから髭を生やして誤魔化しているのだと言って嬉しそうに笑った。 

【 墨は環川詹公五(せんこうご)のセットで二個の内一個は真珠入り。古墨と言っても布張りの箱に入っているのが殆んどの昨今、漆の共箱入りなのが珍しいし本物の確率が高い。第一磨った時少しも音がしないのは硯を痛めないので有り難い。】

  数十種類の清や古今の和の墨を求めたが、磨った時少しも音がしないのは僅かに数種、勿体ないという事も考えて、現代の墨の中では唯一音のしない鳩居堂の好古を使用しているとの事であったので“人墨を磨らず、墨人を磨る”ですねと冷やかした。

    水注ぎは、茶銚「丁稚」倶輪珠梨皮朱泥である。
  具輪珠と呼ばれる宜興窯の後手の茶銚は、胴部が球形で鉄砲口の注口を持ち、多くは盛蓋をなし、その形姿の気宇の大きさから、三大茶銚(具輪珠、萬豊順記、三友居)の首座に置かれ、他と異なり必ず無名である。
  支那古陶磁の鑑賞 尾崎洵盛 北原出版 によると“現今(昭和19年)海内に在るもの恐らく五六點に過ぎないであろう”と云うことである。
  茶銚は水注としても用いられ文人趣味最後のものといわれている。また茶銚は著名文人の箱書きが絶対条件で、これが無いとただの中国土産になってしまうところが、箱書きが無いと殆んど無価値の茶道に於ける楽茶碗に似ている。
  この茶銚も王冶梅の“空輪式急須於清国稀而不易多護也 王冶梅題並識”の箱書きが付随する。
  王冶梅(おう やばい)は清代の画家。南京の人。名は寅、冶梅は字。人物・山水・木石・禽魚を能くするのち上海に住んだ。光緒時代の人。池田正信、森琴石等と交流有。光緒(1年~34年)西暦(1875~1908)明治(8年~41年)。

 筆洗いは、黄交趾で上蓋には紫の双喜文、胴壁は各種の寿文が陽刻され吉祥で華やか。【筆洗いは地味なのが殆んどである。】

印は、太閤秀吉の高麗ミミズ印と同手の獅子紐銅印と、古材の寿山石(じゅさんせき)印。
  寿山石は、大形で環凍の白い環の文様が片面のみにすけて見える。印材説話によると、環凍は田黄などとともに品位の上からすれば最上位のものとされている上、田黄などに較べて真贋が解り易いところが良い。
  印面は朱文で“人生推有読書好”、篆刻もかなりの物だし、読書が好きな主人は印文も気に入っているらしいが、側款がないので彫った人物は不明。

  銅鏡は、高麗波濤船舶八稜鏡で、煌丕昌天の文字と、大波の海上を一艘の楼船が航行している場面が描かれていた。


    大谷光瑞師は、師の著書 支那古陶瓷で“~古瓷ノ愛玩ハ、實ニ無限無窮ノ廣大ヲ有セリ。~恐クハ百歳ノ長壽ヲ以テシテ、死ニ至ルマデ、之ヲ研究シ之ヲ愛玩スルモ、厭飽スルノ時ナカルベシ。”と述べている。
  主人は、之を例に引き、以前から古陶瓷を愛玩していたが、古瓷が単に文房諸宝の一分野にすぎない文人趣味に嵌った今、肝心の精神的な部分を別にしても千年ぐらいは厭飽(えんはう)するの時無かるべしと思う、今までいろんな事に首を突っ込んだが今度は死ぬまで大丈夫、良い趣味を見つけたと満足気であった。

 再会を約し、餻云居を後にして外へ出ると、道を隔てた向こう側の家並みの間から奥山の竹林が見えた。
  今日は竹に始まり竹に終わったなと思い“可使食無肉,不可居無竹。無肉令人瘦,無竹令人俗。人瘦尚可肥,士俗不可醫。”かと呟きながら帰途に就いた。

《2009(21)/ 7/ 8》

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